幸不幸を決めるたったひとつのこと
先日、次の動画をSNSで見かけて、あまり期待せずに見たのですが、私にとって非常にタイムリーな内容で、とても良かったので、このブログでも紹介したいと思います。
YouTube: 幸不幸を決めるたったひとつのこと
お話しされているのは、マドモアゼル愛さん。占星術や人生相談で有名な方なので、ご存じの方も多いと思います。
この動画では、
幸福の定義は、自分の人生を受け入れているかどうか
と説明されています。
これを見るちょっと前に、現実世界で「自分の人生を受け入れている人」と「自分の人生を受け入れていない人」を同時に目の当たりにしていたので、このお話の内容に心の底から共感しました。
世間一般の判断基準(常識)なんて、どうでもいいんですよね。自分さえ納得していれば。
愛、感謝、尊重といった幹がしっかりあれば、枝葉末節の部分において、自分の人生をどう生きるかは自由。
こんなおかしな時代だからこそ、自由でありたいものです。
文字に起こしてみたので、以下に貼り付けておきます。
が、非常に長いし、話し言葉なので、ちょっと読みにくいかも...。(聞き取れなかったところは「X」がついています。)
このテーマに興味がある方は是非、動画を見てみてください。
◇ ◇ ◇
はい、どうも皆さん、こんにちは。大変ご無沙汰しております。今日は木曜日になります。大変天気が良くて、ここのところ1週間くらいずっと暑い日が続いております。秋の訪れを期待していたんですけれども、東京地方は、全国的にですよね、真夏が戻ってきているような、そんな気になっていますので、この間も、水を飲むと結構飲めるんですよ。意外と体って水を欲しているんだなと。まだ夏が続いているのかななんていう気がしております。
油断していると、ちょうど夏バテと重なって、なんか本当かどうかわかんないけど、コロナもまた今すごくぶり返しているような感じじゃないですか。そうなると、ちょうど9月の20日からかな、また新しいワクチンが始まるわけですよね。ちょうどキャンペーンじゃないけれども、そろそろまた流行ってきましたよ、もう1回ちゃんと開始しますね、というような流れに、偶然なんでしょうけれども、なってる不気味さっていうのをなんか感じますよね。調子が悪いから、もう1回打ってこようなんていう考えの人もいるのでね、これ何がいいとは言えませんけれども、なんかあまりにできすぎてるなあという感じでいますけれども。
ま、かようにね、世の中というのはかなりインチキな世界だという気がします。この中でね、私たちは、なんであれ、嫌でも生きていくしかないわけで、そうすると、自分なりの人生観というか考えがないとね、つい周りに振り回されて、周囲が推してくる価値観に、ついフラフラと、自分を明け渡してしまうようなことになりかねないと思うんですね。
私はそれが不幸だと思います。本当にね、幸福と不幸の違いって何かなと思うとね、実は1個しかない。
それで多くのメディアとか私たちの誤解はね、お金があればとか、ある程度出世すればとか、王様のような人はとか、要するに、持っているもの、外的条件があたかも上である人が幸福のシンボルであるかのように、ついつい錯覚してしまいますよね。
有名な野球選手と自分とでは全然価値に相違がある...そんなことあるわけがないんだけれども、つい弱気の私たちは思ってしまうことがあるじゃないですか。凡人の私としては。こういうことはね、人生の幸不幸とは何の関係もない。何の関係もない。なのに、頑(かたく)なにそういう考えがまだ自分の胸に押し寄せるときがある。つい人と自分を比べて、人をうらやんでしまうことがある。これがある意味で不幸ということなんですよ。
どういうことかっていうと、幸福の定義というのはね、もう1個しかないと思う。ま、1個しかないというと語弊があるんで...。でも、大きな最も重要な要素としては1個しかない。それは皆さん何だと思いますか。皆さんもご存じだと思います。敢えて一言で、言葉で言うならばね、自分の人生を受け入れているかどうか、だけなんですよ。
だから、人のことをうらやんで、私なんかと比べたらとか怒りがてらに言う人を見るとね、もうそれだけで、この人何も分かってないな、ということが分かっちゃうわけ。
というのは、自分の人生を受け入れてないわけだよね。自分の存在を受け入れてないんだから、この人はお金持ちになろうが、いい車だろうが、いい学校に入ろうが、いい会社に就職できようが、関係ない。いっときは喜ぶでしょうけど、自分の人生を受け入れてなければ、さらにもっともっとすごいものを持っている人もいるし、その人の劣等感を刺激するようなものに出会うこともこれからきっと多くあると思うんですよ。そのとき、そのたびに、その人の立ち位置は瓦解しちゃうということになる。瓦解しないで済むのは、もうただ唯一、自分の人生を基本的に受け入れているかどうかなんですよ。
なにもね、すべて幸せです、私は幸せです、なんか、宗教であるらしいんですよ、そういうの。何でも喜びなさいっていうね。ま、そういう、不味いものを食べて「わ、美味しい!」なんてね、やっぱりそれは僕は違う、偽善だと思う。逆偽善だと思うけれども、そういう無理難題の無茶苦茶のこととは違ってね、あくまでも、自分の人生を受け入れているかどうかという視点に立てば、なんか不服があっても、不服は不服で言うんですよ。言っていいんですよ、全然。なんかおかしいよ。なんであの人だけそんなにいいのかな。それは誰だって、自然な人情の感情としてもっているわけで、それはそれで全然かまわない。
しかしながら、その最後の最後どこかで、自分を受け入れているか、まあこんな自分だけれど、まあよしとするか。お金持ちで言えば、自分の順位は10人中8番目、9番目は行っていないかなぁ、なんてぐらいの認識だとしても、まあ、それでも不平不満はあるけれども、とりあえず、受け入れているかどうかなんですよ。
安心な人というのは、自分の、その人の人生を受け入れている人というのは、付き合っていて安心なんですよ、見ていても。絶対変な問題は起こさない。予想外の裏切りとか、予想外の反応を示さないわけですよ。時折いるじゃない、突然、予想外の反応を示して距離をばっと取って、いきなり不機嫌になられたりとか。それって、あたかも、「あれ?変なこと言ったかな?」と思っちゃって、確かにこちらの問題がきっかけにはなっているんでしょうけども、突然その態度を豹変するようなことっていうのは、ま、場合によってはお腹が痛くなってとかなんかあるかもしれないけども、基本は相手の問題なんですよ。こちらの問題じゃない。
でも、人がいい人は、こっちに問題があったように、気が弱い人なんかも、私なんかもそう思っちゃうほうですけどもね。でも、やはりそれは違うんですよ。やっぱりね、何か変なことをする人というのは、その人自身に問題をもっているケースがほとんどだと思います。善良な人は、あたかも、機嫌損ねちゃったかもしれない、なんか変なこと言ったかなと思って、何か自分に非があるようについ取っちゃうけれども、基本は分かっていたほうがいいんですよ。相手の問題なんですよ。
どこか変な態度を示す人、また変な展開に物事をもっていく人っていうのは、一言で言うと、幸せじゃない人なんです。何が幸せじゃないかというと、自分を受け入れていないんです。
だから、外部を変えるしかないんです。外部が自分にとって不都合であると思ったならば、その人を批判ないし敵対して、自分の立場を正当化しないかぎり、その人の安寧はないってことだよね。
それはね、どういうことかっていうと、自分を受け入れてないってことなのよ、基本は。それでこれが唯一の幸せかどうかの[実はXXXXXXXX]条件になっていると思うんです。
王様は恵まれている。確かに王様は恵まれている面があると思います。じゃ、王様は幸せだったのかという問いに対しては、皆さん結構逃げていると思いますよ。幸せでなかった王様のほうがはるかに多かったような気がするの。それは分からないけれどもね。立派なことをしたって、不幸で終えていった王様もいたでしょうし、また、ゴータマ・シッダルタ、お釈迦様のように、王様に生まれてもね、結局それを投げ出して修行に出た人もいるわけで、王様だから幸福であるとか、また、お金持ちだから幸福だっていうのは、あまりに稚拙な捉え方。それはひとえに、自分自身を受け入れてないから、そういう捉え方をしてしまうんですよ。
もっといえば、自分自身を受け入れてないっていう人は不幸なんですよ。だって、受け入れてない自分と、一生というか、一生ではないけどもね、今一緒にいなくちゃいけないんだから。だから、不機嫌ですよ、それは。ちょっとしたことを刺激されると面白くないわけですよ。だって、彼、彼女の幸福は外部の条件によって決められちゃうんだもん。自分じゃないんだもん。自分が自分の幸福であるかの決定権をもっていない人生。外部の条件で幸福を決めていくしかないから、そんなもん、いくらお金をもっていようが、いくら権力をもっていようが、幸福になりようがないわけですよ。
となるとね、自分で自分の人生を生きれるかどうかっていうのは、自分の人生をどうするああする、というよりも重要なことになるわけだよね、そうなると。お金持ちであるかないか、お金はあったほうがいいけれども、それによって別に幸福とか幸せとか決まってこないと考える、というか、そういうものですから、あくまで自分が受け入れているかどうか。
「おじいちゃん、私たちの生涯はずっと貧乏だったねぇ。でも、おじいちゃん、いつも一緒にいて、なんか大変だったけど、結構良かったよね」というのは人生の勝利者だよね。間違いなく人生の勝利者だよね。それはひとえに、慎ましいからとかそういうことじゃない。自分の人生を受け入れている人だから。自分の人生を受け入れた人が人生の勝利者なんですよ。
そうやって、考えたらさ、私たち、目的とするものはそれでいいわけじゃない? ね?
もちろん、そのために、自分が納得するために勉強する、自分が納得するためにこの学校に入る、これはこれでね、素晴らしい考えだと思いますよ。しかし、その結果落ちようが、その結果それを失おうが、すべてダメだって思うことになっちゃったら、何の意味もないわけで。だから外的条件じゃないんですよ、やっぱり。
そして、本当にやさしい人っていうのは、その外的条件を求めて失敗して得られなかった、失意落胆している人に対して、その人から見れば、その落胆している友達、恋人、家族は、そんなこと、もちろん学校に受かってくれたほうがよかったし、お父さんに出世してもらったほうがよかったけれども、別に出世しなくたって、学校に入れなくたって、大事なファミリーとして何の変わりもないということを示せること、示すことが大事なわけでしょ? 恋人同士でも。
でも、この外部病にかかってしまうと、妻がいくらそうやって「あなた出世できなくたっていいじゃないですか」って言っても、外部病にかかって、自分の人生を受け入れられない人にとっては、「うるさい!」って感じになっちゃうわけだよね。そして、妻も失っていく。本当に自分のことを受け入れようとしてくれている人、信頼しようとしてくれる人も失うことになっちゃう。だから、どんどん不幸になっちゃうよ。
すごいシステムだと思わない? だって、貧乏人だろうが、病気だろうが、それは苦労で大変ですよ。それは苦しいです。それは当たり前、当たり前というか大変なことは分かるんですよ。だれだって、ある程度あるしね、そういうことって。でも、総合的に自分をなんであれ、苦しみながらも、大変で、私の生涯本当に病気だけであったと、本当に苦しかったと、人をうらやんだこともある。しかし、これが私の人生だったんだなという風に受け入れたとき、それが一般的外的幸福条件をそろえてなければないほど、その人にしか分からない、苦みの中の蜜のような味として幸福を味わえるんですよ。
ま、ディズニーランドで楽しんで、ああ、楽しい、楽しいという中で人生を肯定することもできるかもしれないけれども。でも、それはさぁ、すぐ凹んでしまう幸福だよね。それはそれでいいんだけどもね、もちろんね。それによって自分の幸福が保証されるようなものとは全く違うわけでしょ?
人間っていうのは、どこかで最終的に、常に哲学者、大げさに言えばよ、哲学者じゃなければいけないんだよ、やっぱり。それは何の哲学か? 幸福になるための哲学ですよ。唯一、自分の生涯、自分の存在を受け止め、受け入れることができるかどうかなんですよ。才能がない自分、失敗した自分、金がない自分、病気の自分、それでもなお、自分を受け入れることができるかどうかだけが人生の価値を決めるわけでしょ?
だからね、えらいことだよ。そのとき、考え方の深みが必要になってくる。哲学が必要なんですよ、やっぱり。哲学というのは本を読んで勉強することじゃない。自分自身を受け入れるかどうか、そのときに通常の考えや、通常感じているものだけでは弱いんですよ。深い考え、日頃ない思考、日頃ない深い思いまで、静かに自分と対峙する時間が必要なんですよ、やっぱり。それを成長っていうんだよね。それによって得られるものね。
だから、ワイワイガヤガヤして、コマーシャリズムに乗った世界というのは、哲学を私たちから奪い取っているんですよ。昔は哲学する時間がいっぱいあったと思う。夜になれば、心細くなる。特に秋の夕暮れとかね。9月はまだ夏の余韻があるからいいですよ。10月、これも澄み切った青空の下で自分を気持ちよく感じることができますよ。11月中旬も過ぎると、日も3時を過ぎるともう薄暗くなってきて、突然寒くなってくる。そして、体もまだこれから来る長い冬に適応できないでいるような不安定な、メランコリーなときがあるわけじゃないですか。そういうときに人は哲学できたと思うのよ、昔は。貧しいときは貧しいときで、ただ腹が減るっていうだけではなくてね。何か自分の生活、自分の存在と直面する哲学ができた。これを奪ったのが現代ですよ。
だからね、僕はやっぱりね、現代は悪魔が動かしていると思う。このコマーシャリズムを見ても、人から哲学を奪おうとしている。すなわち、人間でないものにさせようとしているんだよ。これが食べ物とか物理面とか心理面とかで総攻撃をかけている。だから私たちは今、哲学を取り戻さなくちゃいけない。哲学と言うと、そんな大きな勉強じゃない。何度も言いますが、自分自身を受け入れるかどうか、受け入れようとする静けさ、覚悟。それを考え、心に深く問い詰める力、場、時を持てるかどうかに限っていると思うんですよ。
この時、充足とか豊かさはあまり力になってくれない。金がないとか心細いとか孤独であるとか、そうしたものこそが、逆に、哲学を呼び覚ましてくれる。そして私とは何だったのか、それでもなお、この自分で生きていくしかないんだと、この生涯を受け入れるしかない。そこから出発して実際に受け入れてみると、なんという、この苦味の中の甘い蜜のような味わい。
これによって人は神に感謝するようになっている。そのように私はできていると、それを今奪い去ろうとしているのが今の文明だなという気がしてなりません。私たちはこの文明の便利さは是非活用させていただいて、この文明が意図的に持ってくる悪意、私たちから思考と哲学を奪い、自分が何者であるかを受け止めさせる、自分の人生を受け入れさせようとすることに対する邪魔は、どうぞ気づいて失うことのないように生きていきたいなと思っている次第です。皆様はどうお考えでしょうか。ありがとうございました。
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